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戦争を知らない子供達 の 今  [雑感]

戦後70年の節目と云うことで、今まで知らなかった様々な事が、

全体からすれば、ほんの少しでしょうが、テレビやラジオから判って来ました。

 戦後70年近く生きて来て何故、太平洋戦争が起きたのか、

恥ずかしながら、知らなかった。

 詳しい理由は、学ばなかったし、教えてももらえなかった。

 1970年 北山修氏の作詞と杉田次郎氏の作曲で、ヒットした

「 戦争を知らない子供達 」と云うフォークソング( 戦争が終わって、

僕らは生まれた・・・。)を、聴いたとき。

           sensouwoe.jpg
           www.youtube.com

 そう云えば自分達の事なのだと思った。

 確かに、戦後に生まれた事は貧しい生活を体験して判ったけれど、

それは親達が苦労して育ててくれたので、今から思い出せば、

大変な思いで育ててもらった事に感謝します。

 ただ、貧しい生活でも、周りが皆、貧しいので 「 貧しさは、貧しさの中では、

普通 」 貧しさを感じなかった。

 その頃、戦争について話す事は無かった。

どんな、思いで戦地にいたのか、どうやって日本に帰って来たのか

聞くことも無かった。



ただ、ひと言「アメリカ兵の大部分は紳士だった。」と聞いた。

嫌な想い出だから、触れてはならない事だったに違いないし、

生きる為に食べるものを、得る事が家族を守る最優先だったので、

話しする余裕も、無かったのだと勝手に想像する。

さらに、夫や息子、兄弟、父親を戦争で失い、その悲しみから立ち直れ無い

人達が、余りに多すぎたので 「 戦争 」 はタブーに成っていたのでしょうか。

だから歴史の教科書には、単に大雑把に記述するにとどまったのかも知れない。

いや、落ちこぼれの私が、勉強不足の為、学習内容を覚えて居なかったのかも。



聞けば 「 GHQ 」 は、仇討ちに関連する 「 忠臣蔵 」 「 曽我兄弟 」は全て禁止にし、

飛行機の製造も禁止にしたと聞いた。

日本人は敵討ち ( かたきうち ) が得意だから、神経質に成っていた様です。

だから、GHQは国民の反感を、制圧する為に 「 天皇 」 を生かして利用したとの話を

聞いた事がある。

しばらくしてから 「 忠臣蔵 」 の映画が、解禁になってから頻繁に作られる様になり、

最近迄、毎年12月頃には「忠臣蔵」が映画、TVで上放映された。

更に、 「 YS11」 と云う、悲願の国産飛行機が発表された時、

            ys11e.jpg
             www.mod.go.jp

やっと戦後処理が終わったと思いましたが、国連に於いては、現在も敵国扱いであるから、

どんなに資金を投入しても 「 常任理事国 」 に成れないと、聞いたことがある。



最近に成って、何となく判ったことは、経済的ないじめにあって国際連盟を脱退たこと。

更に、経済的に行き詰まり、国内の燃料が2年半?位の備蓄分が有ったので、

短期間で勝利するつもりだった様ですが、あてがはずれて長期戦に成ってしまい、

どうしたら終われるか混乱してしまったと、理解しましたが、違うでしょうか?

混乱したことを取り繕う為に、嘘の上に嘘を通した結果250万人以上の人々を

死なせてしまった。

 社会科の教科書には開戦の年号等、大雑把に学習した記憶しか無い。

しかも、学校で習った歴史は大体「桜田門外の変」で学期末でしたので、

 明治、大正、昭和は、学習の記憶が無いのです。

 勉強不足で、受験勉強でもその辺りの記憶が無いのです。



 今迄、知る事の必要も無く、知る努力もせず生きて来てしまいました。

 祖母、母から、戦時中の爆撃から逃げ回った事の話や、鍋や釜を徴収された事を、

幼い頃、聞いた事は有りました。

 更に、戦後の食糧難で苦労したことも聞いて居ました。

 着物等を米に換えてもらっての帰り道、官憲に没収されてしまい、空腹の子供達に、

食べさせられなくて、とても悲しかったけれど、「あの米はどうなったのだろうかね。

誰が食べたんだろうかね。あの頃は酷かった。」と、聞いた事も有った。 



靖国神社合祀問題で、参拝問題を、中国や韓国が問題視している事で、

何故だろうかと、興味を持った。

 ただ、知る手段は、WEBと図書館の資料でしかありませんでした。

 戦地に行った人達にしても、実際、全体の戦況は知らなかったのでしょうし、

情報統制されていて、上層部でさえ、真実は知らされて居なかったのだと想像します。

ただ 「 お国のため 」 の一言で、何も知らず、知らされず、空しく死んで行った

無数の人達の事を想うと、ただ涙が溢れてくる。 



そんな人達は、どんな死に方するかも判らずにいたが、特別攻撃隊(特攻)に

所属の兵士は、「 船 」 に体当たりで 「 死 」 を迎えることは、

容易に判って居た様です。



そんな兵士達が、「 死んだら靖国で逢おう 」 と、約束して旅立ったと聞く。

帰りの燃料も持たずに飛び立った飛行士、狭く暗くて、何も見えず爆弾を抱えて、

たった一人で発射された人間魚雷の人達が居たのは事実であった様です。

 ただ、特別攻撃隊(特攻)は末期的戦法だと云う事は、判っていたのかも知れないが、

悲しいことだけれど、自分は国の為、それは家族や父母を守る事だと信じて居たか、

信じ様として居たのかも知れない。

 そうでなかったら 「 何の為に、死ぬのか空しくなってしまうでしょう。 」

 調べて行くと、何やっていたのだろうと云う、虚しさしか残らない。


 現場を知らない、年齢に不足のない上層部の人達が、将来の有る若者を末期的な

戦法で、躊躇(ためら)いも無く、「死地」に送った事は、腹立たしい。

確かに、開戦を決めた一握りの人達は、許されない人達です。

ただ、靖国神社に祀られた人達の数に比べ、合祀された人達は無いに等しい。


戦争犯罪人の定義は判りませんが、その数が仮に100人として、靖国神社に祀られた

250万人分の100人で、比率としては 2万5千人分の1人なのです。

 それより、純粋に 「 国の為 」 と信じて、死んで行った250万人の戦士達の母や妻達、

遺族の事を考えたら、国の代表者が堂々と拝礼することに、

何人も口出しするべきでは、無いと思います。

まして、政治的に、口出しする事はあまりにも、悲し過ぎます。

愛しい息子、愛しい夫、愛しい父が祭られた、尊い場所でしかない靖国神社。

         yasukue.jpg 
           www.tatsu.ne.jp 

 純粋に 「 国の為 」 に死んだ 「 兵士 」 が口にした、帰る場所は 「 靖国神社 」 だけ。

 兵士の墓には 「 遺骨 」 すら無く 「 名前 」 だけ、そんな遺族の気持ちを、

政治や国家間の駆け引きの 「 道具 」 にしないで欲しい。

 死んで神になった魂を、これ以上、苦しめたり、ないがしろにしないで欲しいと思うのは、

私だけだろうか。

未来永劫戦争をしない為にも、遺族達の悲しみを判って欲しい。


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